Text by Kaoru Teraura

はじめに

枯れない花、腐らないケーキ、砂漠で朽ちていく使い古された家電、食欲に憑かれた女、集団行動する群衆・・・稲垣の作品は高度消費社会、情報社会を象徴する記号に満ちている。過剰な情報、失われたリアリティー、喪失感。稲垣は状況に翻弄される我々の有様を一貫して批評的に表現してきた。しかしそれは告発やシニカルな嘲笑といった一方的な通告を与えるものではなく、我々の身体が盲目的に欲望してしまう快楽や痛みに対し、我々自身が意識的に向き合う場として機能することを目指している。

稲垣は消費主体として常にターゲット化されてきた我々の欲望を煽動し、増長させ、あるいは抑圧し、無化する様々な要素を作品に織り込むことで、我々が無意識に身につけてしまった消費的身体の慣性に巧みに語りかける。法定限度ぎりぎりの添加物を加えられ、いつまでも妖しい輝きを放ち続けるスイーツ。人工的に彩色を施され、艶やかな色のまま枯れていくアンチ・エイジングな植物。すべてがスペクタクル化した商空間に似たオーラで幸福感を振りまきながら、やがてグロテスクな本質を露呈させる作品や、恐怖感を煽る仕掛けとそのチープな種明かしが共存する映像作品などによって、稲垣は消費社会における我々自身の飼い慣らされた欲望や感覚、そしてそれに対する違和感を前景化する(参照画像1、2、3)。欲望を昇華させたい衝動とその抑圧の狭間を行きつ戻りつするうちに、やがて個々人が確固として持っていたはずの快/不快、美/醜、現実/虚構の臨界面そのものが沸き立ちはじめる。それはいかに強力に我々が消費的身体としての欲望に規定されてきたか、というのっぴきならない状況を自覚する瞬間でもある。

稲垣の作品に登場する男女―石鹸でできた自分の似姿を綺麗に洗いすぎるあまり奇怪な塊と化させてしまう女や、熱い接吻をしている・・・はずが相手の唇に塗られた口紅を食べているだけの男―を、グロテスクな欲望に駆られた現代人の戯画として嗤うことは簡単だ。しかし、稲垣が巧妙に作り上げるきらびやかなスペクタクルにあっては、一心不乱に奇怪な行為に没頭する彼らが映画のヒーローやヒロインさながらのオーラで我々を幻惑し、思わずそこに“幸福な”現代人の真像を見てしまう。消費社会が錬成させてきたスペクタクルが我々を否応なく魅惑するのはなぜなのか?狂ったヒーローやヒロインを羨んでさえしまう我々の“欲望”はどこでどう作られるのか?

稲垣は我々とそして自らの身体を貫き通す欲望の正体を見据えながら、スペクタクルの中へと放り込み、常にあらゆる臨界を泡立たせようと喚起し続ける。我々は本当のところ何を欲し、どんな幸福の像を描こうとするのか、と。たとえばかげた欲望の奴隷となる結末が待っているとしても、あるいは“本当の幸せ”など存在しないとしても、少なくとも我々は、ひとつの自覚を持って作品を作り続ける稲垣とともにこの時代を歩んでいける、つまりは確かなツールのひとつを掌中に先に進んでいくことができるのだ。この幸せを奇貨とし、稲垣のスペクタクルに常に挑戦し、沸き立つ身体を持ち続けたいと切に願う。

松本 薫(大阪府立現代美術センター)