Biennale Internationale de l’Art Contemporain de Casablanca

北アフリカの北西部に位置するモロッコのカサブランカで行われる第3回カサブランカインターナショナルビエンナーレに出品します。

Biennale Internationale de l’Art Contemporain de Casablanca

14-23 Oct. 2016

http://www.biennalecasablanca.ma

出品作品は2014年、アメリカのヴァーモントスタジオで作った映像インスタレーション「Moon」です。今回は作品だけの招待です。

moonweb2

ヴァーモントスタジオでの展示の様子。右側の窓二つ分のところが私のスタジオでした。右から二番目の窓から見えるのが映像「Moon」です。

moonwebそしてこちらがスタジオの中から見たところ。スタジオが広く天井が高かったので、月らしさが出ました。ちなみに映像は宿泊していたお部屋で撮りました。

ヴァーモントでは、自分が設置をしたので、思った通りできますが、今回のように作品だけが招待される場合は、インスタレーションの指示書というものを書きます。

映像はどれぐらいの大きさで投影するのか、下から何センチとか、こう意図があるのでこのように見せたいなどなどです。

作家はどんな風に展示されているのかわからないので、少し心配なのですが、突き放してしまうのもたまにはいいでしょう。

作品自体が頑張ってくれていることを願います。

photo by Howard Romeo

西と東

9月です。もう直ぐ9月11日。9.11はもう15年も前になってしまったのですね。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件のWTCが突入されたのを日本でニュースで見ました。
2001年、8月末に私はイギリスの大学に卒業して帰国したばかりで、今更ながら大学卒業直後に起こった9.11は私にとって大きな事件であり、これからの世界を見つめていくのに、重要な要素になってしまうのだと考えたりしてしまいます。

私が留学をしていた1997年から2001年のイギリスというのはYBA(Young British Artist)最盛期の後で、まだまだYBAを輩出したゴールドスミスカレッジも元気で、イギリスのアート自体も生き生きとしていて、とりわけロンドンにいることは刺激的でアートに触れた毎日を過ごすことができました。
そこで学んだことは今でも自分の中に息づいています。

その後、日本に戻ってきてからは、レジデンスや展覧会で海外を行ったり来たりすることはあっても、基本的には、日本人で日本在住のアーティストという意識は強くなりました。

そうすると、日本で生活をしていると、作家として、自分が日本に住んでいること、そして日本人であることの意味を考えます。
TheDayItIsRainingThe Day It Is Rainingのスケッチ
この世界地図は日本から見たものです。
イギリスの世界地図では日本は本当に極東。

最近、北京に15年滞在して帰ってきた日本人パフォーマンスアーティストとお話しする機会がありました。

その人と話していて面白かったのは、中国では道教の考え方が根強いこと(これは想像できますね)
そして、文化人の違いです。

中国では優れた人は前に出ないことが多く、社会的にならずに、隠遁してしまうらしいのです。その上、何もしないというか、何も作らない人になるようです。

突っ込んで聞いてみると、中国では自身の個性を打ち出したり、アイデンティティについて考えたりすることは西洋のようには強くはない感じでした。

もう一つは、作品制作においては、コンセプトよりも、気というかエネルギーを意識することがあるそうです。

それを聞いていると日本のアートというのは、過去に受け継いだ中国の文化をベースに、さらに今、西洋寄りになっていて、感覚の世界と理知的な世界の間で宙ぶらりんになっている気がしました。

あと面白かったのは書道は、中国では健康法として始める人もいるらしいです。つまり気の世界らしいです。

中国では芸術においてまた違う世界が繰り広げられているようです。

中国にはあまり興味がなかったのですが、このパフォーマンスアーティストのお話しを聞いてグッと中国に興味が湧いてきたのでした。

 

秋の始まりと詩

9月1日、秋の始まり、月の始まり、そして、今日は新月だそうです。

何かを始めるのに良さそうです。

私は、この秋は読書をします。詩を読みます。

きっかけは夏に見た東京国立近代美術館の声ノマ 全身詩人、吉増剛造展。

最近見た展覧会で一番心に残った。
でも展覧会では、詩がビジュアルに重きを置かれていて、私自身も展覧会では詩はほとんど読んでいません。

どちらかというと詩を感じる展覧会でした。

五感を通じて、詩の強さと、言葉と文字自体や写真や映像、ビジュアルへの展開にパワーを感じ興味を持ちました。

展示には日記もありました。
その中で目を引いたのは文字でした。
20代の頃の日記の特徴のない書体と大きさの文字。

そして、現在の2mmほどの大きさで書かれた極小文字への経緯に関心が行きました。

その文字を目にした時に、文字自体が詩を書くというか、詩を生み出していることもあるんじゃないかなと思いました。

そおうでなくても、彼の文字は、文字以上であることは展覧会を通して見えてきたのでした。

その後、宮沢賢治にも興味が湧く出来事がありました。つい最近は、友達の紹介で、ポルトガル人の詩人に出会いました。

なんとなく詩との出会いが出てきた。だから、この秋は詩にフォーカスをしてみます。

小学校高学年の時、詩の家庭教師を付けてもらいました。私にとって後にも先にも家庭教師はその一人でしたが、詩の家庭教師って今から考えれば不思議なものですね。

家庭教師は多分文学と絵が好きな頭の良い学校に通う高校生でした。詩を書いて、読んでもらったりしていました。

今から思えば、小学生の私は詩の何に惹かれていたんだろうと考えます。

家庭教師をつけてくれた父でした。父は画家で、むしろ父も詩に惹かれていたんじゃないかなと思います。

小学生だった私が何に惹かれていたのか、詩を読んで思い出すかもしれない。

そんなことも考えながら、ゆったり詩を読む、熟成していく秋にします。

tree

 

 

神秘的な光景

登山について前回書きましたが、富士山に8/23,24に行ってきました。

前日は台風が来て飛行機が欠航している状態だったので、富士山にたどり着けるのかという状況ながら、富士山五合目に到着することができました。

初心者にもまだとっかかりやすい吉田ルートを13時ぐらいにスタート。
一人登山のため、心配なのは、天気、高山病、怪我です。
慎重で、高山病にならない呼吸法をネットで調べて実践をしたのと、急がずにペースに気をつけました。

今まで練習のため登山した緑豊かな低山と違って、富士山は緑は少なくほぼ土や岩のみで、教皇が高いだけあって雲海が下に広がります。
その光景にさすが霊山、毎年来てもいいな、なんてのどかに思いました。

そして、2時間~3時間登山後、7合目の山小屋に宿泊をしました。

山小屋で仮眠し、0時半起床、再び登山開始です。
平日だったので人も少なく、真っ暗の中、ヘッドランプのみが頼りですから、登山道がわからなくなるところもありました。
延々と続く急な坂の岩山を登り、高山病(?)になって休んでいる人たちもおり、自分のペースに気をつけて、長い長い道のりを進みました。
すっかり「毎年富士山」への思いは消えました。

ペースを考えたら頂上に着いてからのご来光を拝むのは無理かなと思っていました。
5時過ぎにご来光予定で、途中の山小屋で「山頂まで何時間かかるか」と聞いてみたら、「1時間半」と言われ、
その時点ではご来光まで1時間15分しかありませんでした。

急ぐのは良くないので仕方がないと思いながら、あきらめずに自分のペースで進んでいると、なんとかご来光前に頂上に到着することができたのです。
ところが、残念なことに山頂ではご来光の直前に霧が立ち込めました。
待っていた人たちもがっかりでした。
「もうご来光は無理だ」、「早く降りよう」とか、「ラーメン食べよう」など、すでに諦めている状態でした。

それでも霧の中をずっと見つめていたら、そうしたら、ゆうっくりと光のかけらみたいなものがちょこっと見えて、ゆるりゆるりとお日様が現れたのです。
霧のヴェールをまとい、その丸い形を完全に表すと霧のもやを金色に輝かせました。
霧の紗を通して見えるお日様はなんとも上品で神聖で、後ろに仏様がついでに現れてもいいぐらいおかしくないくらい神々しく、
これがそれでも現実なんだと驚かせてくれるほど美しい光景でした。しばらくすると、しっかりお日様は太陽らしくなり、青空にさんさんと輝き始めました。

sunshine2
ご来光の美しさは写真には撮れなかったので、

日が昇った後の富士山

私も、日常らしい太陽になったお日様が目にまぶしすぎるようになってから、お鉢巡りをして、
山の天気らしく今度はころっと変わって、雨が降り出し、雨の中、下山をしたのでした。
辛かったのでもう二度と来ないぞと思いながら。

山に登る

低山ばかりですが、この夏は山に登っています。
全くアウトドアではない私が、いきなりなぜ山に登るのか。
今年は富士山に登りたいと思いたったからです。

mountain

登山をしたこともない私がこの突然の大きな目標を思い立ち、1週間後には富士山に登る予定を立ててしまいました。何も知らなかったので、ツアーではなく一人登山で山小屋を予約しました。

さてさて、登山予定の1週間後に、静岡に赴いたら富士山は雨。登山超初心者の私には雨の中登ることは拷問と思われ、山小屋を宿泊日変更をし、富士登山を一ヶ月延ばしました。

この延長が良かった。なぜかというと、登山の練習が一ヶ月間出来ることになったからなんです。この間に少しずつ山の高さを上げていって最後に富士山という計画を立てました。

この一ヶ月間の登山練習のように、私にとって身体能力を高める計画を立てたことが今までなかった。

つまり、美術制作にしてもこのように計画的に何かの能力を伸ばしていくような考え方がなかったんです。今回のおかげで計画を立てて高めていく方法があると知ることができたのです。(芸術能力が高められていくということが計画的に出来るかということは別として、組み立てられるということはできるかもしれません。)

他の分野で何かをするということによって気付かされることもあるものです。

あと、登山によって、もう一つ気付いたのは場所による視覚、視点の違い。インスタレーションや映像制作では空間の広さがとても重要です。

私は日本のほどほどの都市の郊外に住み制作をしてるので、やはりそういう環境のもとで育った空間感を持っています。

作品において、ビジュアルにおける奥行きがどうしても浅い感じになります。それはもともと持っている空間感であり、意図したことでもあります。山で感じたのは、日本の山の環境は狭くて、深い。この狭さヨーロッパやさらに広いアメリカとは違って、日本独自でもあると思ったんです。この環境を体感しました。

体感できる経験というのは、いろんな方向に響くものです。

山についての作品はないのですが、山には何度か作品のために録音に行ったことがあります。

一つは「オアシス (2005)」という作品の鳥の鳴き声などのオアシス的な音。

もう一つは「赤い部屋の森の夜(2005)」という作品の走り回る音。

人工的な音が入らないように、山に来ているのに、車の音や工事音など、どこでも人工的なものが入り込むものだと思ったものでした。

禅と呼吸とアート

2007年にフランスのアーティスト・イン・レジデンスから帰ってきた時に、これはイギリスから帰ってきた時もそうだったのですが、やはり日本をもっと知りたいと思うようになりました。

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「嘔吐」 2007  映像インスタレーションの映像部分

もう一つ、アートの世界が主流の欧米では言葉がとても大切なのだけれど、日本のアートというのは言葉で説明できないところを大切にしている。

そして、日本を知るという意味も含め、日本の文化に多大な影響を与えた禅に興味を持ったのと、禅を言葉でもってアメリカで有名にした鈴木大拙氏の本を読むことから始めることにしたのです。

鈴木大拙の事を知ったのは留学時にイギリス人の親友が読んでいたのを覚えていたからです。

禅は言葉ではなく、座禅をしなければ始まらないのですが、これはアート、きっと他のことに置き換えても、可能だと思い、言葉で表現できにくいことをどう納得させ、説明するのかということを学ぼうと読み始めました。

それが、研究というか知識だけ得るつもりだったのが、鈴木大拙氏の巧みな文章の魅力にはまり、座禅自体に興味を持ち、座禅を実践をすることにしたのです。

禅宗の各宗派の座禅会に顔を出したり、本を出しているようなお坊さまのお話を聞きに通ったり、そのうち、禅宗だけではなく、いろいろな宗派のお寺の法話にも参加したりするようになりました。

そんなこんなをしているうちに、実家のお寺さんに、そんなに仏教に興味があるなら、お釈迦様が行っていたヴィッパサナ瞑想というのがあるから行ってきたらいいと言われ、いきなり10日間の合宿に参加したのでした。

合宿にはなんの情報もないまま好奇心で行ったのですが、場所は駅から離れたバス停からさらに車でしか行けない逃げられそうもないところだし、10日間誰とも話してはいけないし、アート関係者しか知らない私にしてみれば参加者はインドっぽいカッコをしているし、変な宗教に来てしまったんじゃなかと最初はびっくりしたものでした。

それが10日間やってみると、すごく良かったんです。

修行みたいな状況が嫌ではなかったようで、毎日瞑想ばかりの毎日も苦ではなく、終了後には、頭がすっきりして、集中力がついたのです。その上、心も綺麗になった気がしました。
それから瞑想はいいものだと思うようになりました。

それでも、毎日の瞑想は習慣までにはならず、ヴィッパサナも続けたり、続けていなかったり、それでもなんとか数年、ダラダラと何とか続けていくうちに瞑想をしてる間は雑念ばかりで集中できていないことが気になり始めました。

それで、座禅も呼吸の数を数えるということから、呼吸法に着目し、瞑想ではなく呼吸法を毎日するようになりました。その呼吸法は第一人者である加藤俊朗先生のものでした。

加藤先生に興味を持ったのは詩人の谷川俊太郎さんの先生であること。アーティストを教えているのだから、アートに近いのではと思ったというところと、スピリチュアルすぎるのは、入れないところがあって、加藤先生は方法も見せ方もシンプルだったということがありました。

そして、ひょんなことから加藤先生自身に教わることになり、呼吸法のリーダーズクラスを終了しました。

それで今は、呼吸法を毎日行っているのですが、とてもいい。何がいいかというと、心がスッキリしている。ひらめきが豊かになってきた。アーティストなのでひらめきは豊かだと思っていたのですが、違う方向のひらめき方ができるようになりました。頭の考えではなく、体の考えや、そして、全体の流れが取れるようになってきました。人間本来の能力が、息すなわち呼吸(人間の生活になくてはならないもの)を整えることで、取り戻してくるのだと感じます。

あとは、何かを探しているところ(何を探してるのかがわからなくてそれが何か探している)が呼吸を始める前はあったのですが、今はそういうところは無くなりました。

二ヶ月に一回呼吸を教えることも始めて、アートと同様、呼吸も生活に繰り込まれています。

呼吸法のサイトはこちらです。
http://artki.jimdo.com

感じて教わる。

私とって、学びの一時があったのでそれをちょっと書いてみたいと思います。
市の依頼で緑豊かな山地での展覧会についての相談を受けました。
その展示場所に、あるアーティストと市の職員さんたちと一緒に下見に訪れました。
そこは市の所有する道の駅の隣の公園のような場所でした。
下見が終わりそうになった頃、そのアーティストはナチュラルにその土地の周りの探索を私たちと一緒し始めました。
私たちは公園の横の道を渡り、すぐ隣に広がる森の中を散策しました。
1歩踏み出しただけで、そこにはその公園よりも生々しく、豊かな本来の自然があり、
冒険的で、そして何か物語を紬だしそうな創造的な場所でした。

しばらくして、そのアーティストは最初に決められた場所ではなく、その散策した森で展示ができないかとを尋ねたのです。
そのアーティストは、私、そして、市の職員たちと一緒に歩き、その場を共有し、経験させ、それぞれの感覚に訴えることで、展示する場所の見つけ方を私たちに教え、その提案に不動の説得力をもたしたのです。
私はこの経験を通して、教育とは与えることよりむしろ、一緒に感じる環境へ導くことだと思ったのでした。
アーティストである私は、アーティストから学ぶことが多いです。
アーティストは、本来人間みんなが持っている宝石のようなものが、
自分の中にあるのを知っていて、それをとても大切にしている人たちなんじゃないかなと思います。

トーク「もう一つの時空間」と高橋源一郎さんのお話

6/21のJICPでのトークが議事録(HP)となりました。

JICPでのトークではインスタレーションに馴染みない方もいると聞いたので、インスタレーションの説明もしました。

でも、もちろん、アートに詳しい人もいるわけで、どこにポイントを置くかというのが重要です。

私には映像作品があるので、本当に助かります。このトークでは映像を3点ほど見せました。作品というのは、見せる状況ももちろんあるのですが、本物なのでやはり伝わりやすいと感じます。
JICP1
トークというのは難しいなと思ったのですが、稀にトークで人を魅了してしまう人がいるのも事実。

先週、作家の高橋源一郎さんの講演「ぼくらの学校なんだぜ。」に行ってきました。

高橋さんは言葉の人とはいえ、一時間半以上(延長して)一人で話切りました。
話は取り留めないし、飛ぶんだけど、そのトークが本当に上手。まったく飽きませんでした。

講演の中では、他の作家さんの名前も出てきたのですが、

鶴見俊輔さんがハーバード大学にいいる頃、Poet in Residenceでロバート・フロストが1年間ハーバードにいてたそうです。ロバートフロストは1年間のレジデンス中、ほとんど飲んで、ベンチで寝てて、生徒が質問してもろくに答えてくれなかったそうですが、学生でどの先生が良かったかというアンケートで一位になりました。

あんな生活を送っていても、素晴らしい詩が書けるということが学生には新鮮だったようです。

確かに、一生懸命制作しているからといって、いい作家というとそういうわけではありません。

私もレジデンスでいろんなタイプの作家を見ました。

で、「ぼくらの学校なんだぜ。」の最後のまとめは結局「教えないのがいい教育」という結論に達したと思うんですけど、私もそうだと思います。でも、教えないのが難しいんですけれどね。

『ぼくらの文章教室』を読んだことがありますが、いい本で、面白くて、それでも、まだ私の文章は上手にならないんだけれど、彼の講演によるとうまくなるコツは「人に読まれる」ということなので、こうやって書いてみたのでした。

あなたと私、一対一で向き合うパフォーマンス③

ここまで来るのに時間がかかってしまいましたが、あなたと私、一対一で向き合うパフォーマンス③です。

さてさて、重要なパフォーマンスの部分です。

パフォーマンスは金、土、日の三日間。一対一型なので実際に経験できるのは少なく30人です。

フェスティバルWROUGHTの主催者の方たちがわざわざ日本からやってくれる私のために、宣伝をしてくれたのでしょう。私のパフォーマンスは予約でほぼ満席。

パフォーマンスは20分間行われ、平均休憩は10分です。

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さて、どんなパフォーマンスというと、インスタレーションの奥に机と椅子が用意されており、

その席に観客と私は向かい合って座り、一緒に水 -私はBuxtonというイギリスの水を飲み、観客は日本から持ってきた岩手県の水を飲む-というパフォーマンスです。パフォーマンスでは私は一切話しません。

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観客の方は何をしても自由ですが、20分間というのは結構長い。

最初私は、無言ながらコミュニーケーションをするような気持ちで、相手に答えるというか気を使っていたのですが、数人とパフォーマンスするうちに思ってきたのです。

コミュニケーションをしているつもりでも、すべて自分で感じるだけですから、結局自分しかいないのです。

思ったことも、自分が勝手に推測していることですから、相手がわからない。

このパフォーマンスは結局自分と向き合う行為だったのです。それは相手も然りでしょう。

さまざまな人がいました。話す人、途中で席を立つ人、目をじっと見つめる人、外らす人、パフォーマンス最終日は疲れたような疲れていないような。。。

不思議な感覚を伴ったパフォーマンスでした。

今まで興味があって実践していた座禅や呼吸法が生きてくる作品でもありました。

また日本でもやってみたいと思えるパフォーマンスでした。パフォーマンスはそんなに盛んではない印象がありますが、このパフォーマンスは茶道に通じるものがあり、日本人にもなじみやすいのではないかと思いました。

 

トーク「もうひとつの時空間」

主にハンブルグの個展についてのトークをいたします。

ハンブルグの個展で見せた作品などを交えてのトークになります。

このトークタイトルは主催であるJICPのディレクターの方が、私のインタビューなどを読んでその中で印象に残った言葉だそうです。

素晴らしい作品にはもう一つの時空間が存在しているのを目の当たりにすると感動するものです。

最近では TATE MODERNの「Performing for the Camera」で細江英公氏の舞踏家、土方巽氏を撮った写真を見て強い衝撃を受けました。小さな写真の中に現実より幻想的でありながら、しかし、一方では強い現実性を持った時空間を見ました。

そう考えると恐れ多いタイトルであり、それについて片鱗でも話せたらいいかな。

TI_JICP「もうひとつの時空間 美術作家 稲垣智子 上映とトーク」

日時:2016年6月21日(火) 19:00~20:30 (18:30 受付開始)

会場:大阪府立江之子島芸術文化創造センター2F ルーム12

tel: 06-6441-8050

ゲスト:稲垣智子(美術作家)

映像「間ーあいだ」上映(7分)

お話「もうひとつの時空間」

参加料:1,000円 参加申込は6月18日までに下記e-mail(JICP)までお申し込みください。

主催:JICP           e-mail: info.jicp@gmail.com

説明のPDFダウンロードはTomokoInagaki_JICPから。